2011年5月10日火曜日

秋田県の玉川温泉開発の歴史と秘話!


歴史の背景(日本と世界の動きを探る!)
八幡平アスピーテライン
戦乱の続く不安定な世の中を雇用の安定を図るべく十和田・八幡平(はちまんたい)を国立公園に編入させ、東北一の観光地にして、世の中に役立つ難病を治す奇蹟の玉川温泉開発に命を懸けた偉人。五代目関直右衛門(1873年生-1943年没)の物語でもある。
玉川温泉の地獄谷
806平安時代)温泉の出現! 玉川温泉は焼山が噴火した時に温泉も出現したと思われる。この頃、最澄(伝教大師)が天台宗を空海(弘法大師)が真言宗を開いた。巨大な北投石も発掘されていることから、その年代測定によると5000年前にも噴火して温泉が出ていただろうという。


1680年(江戸時代)の頃に温泉がマタギ(猟師)によって発見された。世の中が安定し商工業が発達した元禄文化の時代である。徳川綱吉が第五代将軍となり1687年に生類憐みの令(お犬様)を出した。秋田は佐竹藩の領地で、最初は火薬材料の硫黄の採掘場として開発されたという。硫黄の品質があまり良くなかったので採掘場としてはあまり長続きはしなかったようで、閉山後はマタギや鉱山人夫など少数のみが利用するひなびた温泉であった。硫黄の精錬と採掘の鉱山人夫らが怪我をした時など温泉に入ると怪我の治りが早かったという。打撲にも良い、目にも良いと言う事で目の神様=玉川薬師神社の建立になった。 

玉川薬師神社 鳥居

 採掘場が閉鎖されると、その後しばらく放置されていたという。温泉の存在は閉山後も鉱山人夫たちやマタギの口コミで秘湯という形で細々と利用されたようである。皮膚病や胃腸病に良いと言う事で、1935年(昭和10年)頃まで下流の湯滝の下にハンセン氏病患者が小屋を立て別居湯治して2ヶ月ほどで完治したという記録もある。
マタギは集団で狩りをした

温泉の発見は下流のマタギ(猟師)鹿狩りをしている時に、しとめ損ねた、手負いの鹿の血痕を追って上流まで数日間追い続けた結果、源泉の下流の滝つぼの温泉に身を沈めて傷を癒している鹿を発見したが、すでに傷が治っていて元気良く逃げ去ってしまったという。
猟師仲間の間では鹿の湯と呼ばれた。下流の猟師たちの村(マタギ村)でも温泉の効能などが評判になっていたという。野生動物は怪我をするとか不調な時は本能的に温泉の薬効成分がカラダを癒してくれる事を知っていて、獣類にとどまらずサルなどは頻繁に利用しているようである。自然界のお医者さんの役割が温泉である。
カモシカ
長野県地獄谷野猿公苑

1884(明治17年)角館の粕谷氏の湯治場開設願いが出されて許可されている。当時は馬で1日かかるような場所であった為か湯治場は実現していなかった。





1887年焼山が噴火!


1884年清仏戦争=ベトナムの支配をめぐる中国(清)とフランスの戦争で清が敗北。
1885年ダイムラーとベンツが自動車を発明。
1893年ドイツのディーゼルがディーゼル機関発明。アメリカのエジソンが映画を発明。 1894年日清戦争。
八幡沼



1895年ドイツのレントゲンがX線を発見。
1896年アテネで第1回近代オリンピック競技。
1898年アメリカがスペインと戦いハワイ、フィリピンを併合。

1898ポーランド出身のキュリー夫妻フランスへ移住・帰化。ラジウム発見。

1898年(明治31年)東京帝国大学(東大)の櫻井廣三郎により不明鉱石(北投石)が発見された。
玉川温泉では鹿湯 渋黒沢温泉と呼ばれていた時代に不明鉱物として、当時は化学名の硫酸重土鉛鉱と呼んでいた。放射能鉱石である事も後に確認されたという。北投石の命名は20年後の1913年神保小虎が調査研究の際にロシアの学者フェルナドスキーと協議の末、西洋名 Hokutoliteで日本では北投石と命名した。

1899(明治32)頃、鹿の湯の権利は角館の陶(すえ)氏に譲渡される。

1901年第1回ノーベル賞。ヴィルヘルム・C・レントゲンが物理学賞で受賞。
1903(明治36)鹿の湯花輪の根市氏によって質が良いと評判の湯華の採取が行われる。湯の華は草津・別府などの名前で販売されていたという。
首都圏などで売られている大半は化学合成品や中国製などが多い。安売り品の湯の華の中には有害な化学物質混入のモノもあるので注意が必要である。全身の皮膚から吸収されるので、入浴剤は天然素材を選ぶ事である。

1903ロシアが満州を占領。ライト兄弟が飛行機を発明。1904年(明治37年)日露戦争~1905年ロシアに日本が勝利する。明治時代の軍隊は強かった。

北投石



1905年 北投石を発見!

地質学者の岡本要八郎が北投石を台湾の北投(べイトウ)温泉の瀧乃湯(銭湯)で入浴した帰りに近くの川で発見したもの。

ラジウム温泉の北投温泉は1894年にドイツ人が発見したとされる。
大阪商人の平田源吾が北投で最初の温泉旅館「天狗庵」を開業。
その後、日露戦争の際、日本軍の傷病兵保養所が作られ、公認の売春宿(公娼制度=1979年廃止)もでき歓楽街としても栄えた。それ以降は台湾有数の湯治場として知られるようになった。戦前はハイカラでモダンな温泉街として知られ、1923年には昭和天皇(当時は皇太子)も訪問したという。

2010年には日本の旅館ランキングで29年連続の総合得点で日本一になった日本旅館・加賀屋(石川県七尾市和倉温泉に本社)が現地スタッフに日本の文化ともいうべき「日本の最高のもてなし術」を特訓して、台湾の現地でも人気の高い日本旅館・加賀屋北投が開業。

1910年韓国は日本に併合された。1912年 中華民国 成立。1914年第一次世界大戦が始まる~1918年。1920年国際連盟 成立。日本が加盟。ドイツにナチス(極右政党)が出きる。1921年中国共産党 成立。イタリアにファシスト党結成される。1922年ソビエト連邦 成立。

913年北投石の命名。東京帝大の鉱物学者の神保小虎によって台湾の北投温泉と同じ石であるとして、命名された。世界では玉川温泉と台湾にしか存在しない放射性ラジウムを大量に含む温泉沈殿物重晶石(硫酸バリウム)である。
神保小虎が調査研究の際にロシアの学者フェルナドスキーと協議の末、西洋名 Hokutoliteで日本では北投石と命名した。

1918(大正)北投石が脚光を浴びる!

秋田鉱山専門学校秋田大学鉱山学部の前進)の大橋教授が学会で発表。
台湾の北投石と同じラジウム含有の石の調査発表を学界でして脚光を浴び、その存在が世に知られることになった。



北投石(地元では薬石)の秘話

ホルミシス効果(低レベルの放射線に浸ると健康に良い効果があるという研究=1978年にアメリカ・ミズーリ大学のトーマス・D・ラッキー生化学教授が発見し、982年に学会誌に発表した学説である。ホルミシスとは刺激するという意味。

実は、この研究に関しては、驚く事に日本の方が早かったのである。トーマス・D・ラッキーが発見する20年以上も前の昭和30年代(1955年代)に河合峻作医学博士(放射能原始医学研究所長、当時)によって玉川温泉の湯治効果の評価の研究で北投石に関する研究がされていた。天然放射性原子の微量放射線に関する研究資料の中に医学的効果を臨床での素晴らしい回復改善効果を確認したという論文が発表されていたのである。
ところが昭和30年代の日本では広島、長崎の原爆による放射能被害が強力なアレルギーとなっていて日本国民の多くや医学会に於いてもこれを許容し理解しようという空気がなかった。低レベルであっても放射能を正当化する事は否定もしくは拒否された為、とても残念なことに、この論文は日の目を見ずに埋もれてしまったのである。

玉川温泉は医学界に於いても、一部の温泉専門医を除いて、いまだに正当に評価がされていないのである。医は算術であるという。とにかく医学部は金がかかる1人前の医者になるまでが大変である。開業医にしても大病院にしても高額な医療機器の導入。専門医療スタッフ不足。病院建設費用も維持費もある。医療事故や医療ミスの賠償金リスクは常に付きまとう。アメリカの場合は開業にあたって、損保会社が医療事故賠償金を引き受けてくれない場合は開業は出来ないという。米国は訴訟社会である為、損保会社契約が病院開業の条件になっているという。


2011年現在の日本でも世界的な名医で米国を拠点に活動している『神の手』といわれ、年間最多では900件も手術をこなした事がある脳神経外科医の福島孝徳教授(東大医学部卒1942年生まれ現在69歳)も脳腫瘍の手術ミスで患者を救えず、1億単位の訴訟を起こされて、係争中である。偶然にも福島県とフクシマは原発でもメルトダウン(炉心溶解)で世界的に有名になってしまった。とても残念な事である。

原爆で破壊されたヒロシマ・原発事故のフクシマと因縁のある名前である。

最近の病院を取り巻く環境は全てにコストがかかり過ぎるという、病院経営は救急病院以外は火の車。特殊な手術や放射線治療など高額な医療費を捻出せざるを得ない状況で、金もうけに走らざるを得ないという。人命救助の前に医者の能力ではなく経営能力がないと病院経営は成り立たないのである。

医者不足で勤務医は休みが十分に取れずにストレスがたまる職業のワースト4に入っている。そんな状況で、温泉療法医は花形の外科医などに比べると地味であり、何よりもお金が儲からないという事で、元が取れない。なり手が極端に少ない。温泉療法の若き研究者が育っていない一因にもなっている。

現在の玉川温泉研究会のメンバーの重鎮は高齢化の波に埋もれそうである。血気盛んな時はバリバリと好きな医療部門で働き、引退直前に研究課題として温泉医療をやるという傾向にあるからです。激務に追われて、医者の不養生か、癌になった医者自身が身分を隠して玉川温泉通いでポロリと身分を明かしたりする。

個人的には玉川温泉の実力を認めているのであるが、公的には商売敵でもある為に公認できないという事情があるのだ。最近、経営的に採算が取れない公営や私立の病院がなぜか増殖している。近代医療を維持する為の億単位の高額医療機器の導入。高コストの建設費など、医療の産業廃棄物など昔に比べて、全てに経費がかかると言う。経営合理化が進んでいない事と経営マネジメント能力が欠如していると思われる。

玉川温泉研究会・附属診療所の野口順一先生元・岩手県立中央病院皮膚科長・1924年生れ=2011年で87歳の現役である。40年も玉川温泉 付属診療所を担当の温泉療法医)は言う!温泉療法は現在の西洋医学の補完的な医療として考える医者達が多いが、代替医療と言うよりも、独自の独立した温泉医療として進化できる。糖尿病、高血圧症の患者などは一生、薬を飲み続けるという、薬物依存は医療全般に言えるが、薬漬けの西洋医学には問題があるのだと警鐘を鳴らす。
長年、多くの患者を観察指導してきた臨床実績のある心強いお言葉である。
玉川温泉に来れば、それから開放させられる。少なくとも投薬量を半減させる事が出来る。 

玉川温泉は泉質の効用が緊張性泉と言って、刺激して・耐えさせて訓練する温泉という独特の療法である。強酸性泉が皮膚を刺激してチカチカ、ピリピリ痛む。ブツブツの赤い湿疹を発生させる。カラダの発生場所によって、カラダの悪い場所を数日の湯治で知らせてくれる。そして治療してくれる。ここの温泉は医者の様なものだ!大丈夫だよ!湯治を続ければどんどんカラダを治してくれるんだよ!心配ないよ!
※玉川温泉附属診療所は週1回開業で湯あたりや湯ただれなど温泉医療の相談が中心である。野口先生はブツブツの湿疹の出た場所でどこが悪いのかわかるという。

玉川温泉の研究論文で医学博士が誕生!

玉川温泉研究で東北大から8名。岩手医大から4人の12名の医学博士が誕生している。玉川温泉には科学解明されない何かがある。学者にとって、玉川温泉は研究の宝庫でもあるのだ!
1920年(大正9年)日本 国際連盟に加盟


1922年(大正11年)北投石が天然記念物に指定される。

1923年(大正12年9月1日土曜の昼11時58分)関東大震災
(日本災害史上最大級の被害)。

マグニチュード7.9 死者行方不明者11万人。震源地(相模湾海底)に近かったのが横浜市・神奈川県地区であった。東京、千葉県、茨城県、静岡県東部までと長野、栃木、群馬の各県の内陸と沿岸部の広い範囲に甚大な被害をもたらした。190万人が被災。住宅などの損壊焼失は37万2千軒強。

建設中のビル建物が倒壊して300人以上が圧死。外国領事館の全てが焼失した。工場・会社事務所の90%近くが焼失。津波も10m以上が観測されている。救出された者達も最後は火事で焼死するという地獄絵図で男女の見分けのつかない死体の山が4万人以上であった。火の海を逃れて川に飛び込みパニック状態で人々が重なり合い溺死する者も多数いた。

加藤総理大臣が震災の8日前に急逝していた為、内田康哉が臨時代理で職務を代行するなどで内閣は混乱していた。新聞社も3社以外13社が焼失。東京日日新聞(毎日新聞社)が9月5日付の夕刊を発行するまで報道機関は途絶してマヒした。デマ報道を規制する事態もあった。ラジオ放送の実用化はこの直後で大正の末期の事である。

街は噂やデマで信頼できる情報源がない為に大混乱した。略奪や人種差別殺人も起った。中国人・朝鮮人などへの襲撃が起こり自警団やヤクザや警察や軍部などとの縄張り争いが入り混じって一般人を含む運動家や思想家や政敵まで混乱に乗じて軍部や警察が動き殺害する事件も起きた。これらの犠牲者は2千人~6千人と推定される。

夜は暗闇の世界で無法地帯になり、発砲事件も度々起きた、治安維持のために戒厳令まで発令された。火事で監獄が焼けた為、犯罪者を1000人以上開放する事態もあった。多くの失業者と避難民で治安が悪化し、一部はスラム化した。東京からの避難民で大阪市は人口で一時的に日本最大の都市になった。

廃墟同然になった東京の街の大改革が行われた。区画整理や道路拡張などのインフラの整備は野党の反対で30億かかる計画予算をケチって5億円で妥協した都市計画が進められた結果、車社会などに未対応な許容量のない公共の設備・施設が不足して後々バランスの悪い都市計画になった。遷都=首都移転する案も出された。耐震基準の大幅な改正法が出た。
震災後のラジオ放送も始まった。東京は瓦礫が撤去され、見た目上では建物が出来て、平常生活が出来るまで1年以上かかった。驚異の復興劇でもある。第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済は震災復興に伴い昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。

1929年(昭和4年)鹿湯=玉川温泉が皮膚病に良いと評判になり、長年、難病化した皮膚病に悩まされていた五代目関直右衛(関直旅館=現・湯瀬ホテル創業者)が鹿湯に10日程、湯治して40年間も治らなかった難病の皮病を完治させた効能に驚き感激する。五代目関直右衛門57歳の時である。

1929年世界恐慌が始まる。1930年日本でも不景気で3年間失業者が続出した。この頃、東北地方は冷害による凶作で1921年、1931年と続き、1933年から1935年にかけて大飢饉が多発した苦しい時代。東北出身の軍人(山形県出身・陸軍中将=作戦参謀の石原莞爾(かんじ)=満州事変を成功させた首謀者で除隊後に立命館大学教授=満60歳で没)が国民の窮乏を見かね、1931年満州事変を起こすきかけにもなったと言われている。


関東軍は4カ月で満州全土を征服。1931年満州事変が起こる。45万の旧式装備の兵力を持つ中国軍を6万の最新装備の兵力を持つ関東軍の兵力で撃破し勝利するが国内の内閣の総辞職を招く事になる関東軍の独断独走でもあった。

1932(昭和7)五代目関直右衛門は皮膚病が完治した玉川温泉の効能を広めたいと鹿湯を共同経営をする。角館の陶(すえ)氏が病気引退の後は買取り、単独経営に乗り出す。


1933年(昭和8年)国際連盟が一方的に日本の満州国撤退を決議した為、日本は国際連盟を脱退。
1933年3月3日午前2時30分 昭和三陸地震発生!
震源地は釜石の東方沖200Km.M8.1 震度5の強震でも地震の被害は少なかったが津波の襲来で被害は甚大であった!

この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及ぶ。被害が激しかったのが田老村(現・宮古市の一部)は壊滅状態であった。

1952年に海抜10m総延長2433mの田老の巨大防潮堤が完成。1960年に発生・襲来したチリ地震津波を食い止めたことで全世界に知れ渡った。



※2011年3月11日(三陸地震から78年後)の東日本大地震では津波の高さが最大で38mまで達した為に役立たず又もや全域が壊滅状態になった。




1933年 五代目関直右衛門(60歳)は玉川温泉まで,車の走
る道路整備に乗り出す。

東北地方は大冷害でこの数年間は大飢饉に見舞われて餓死者や農村では身売り騒動が起きていた。農村の窮状に対する救済でもあり、農村の出稼ぎ者の失業対策と鹿角市の主要産業である鉱山と精錬が衰退してきた時期であり、三陸地震もあった為の社会救済事業でもあったと思われる。

戦争と関東大震災、三陸地震、昭和大恐慌という大災難をことごとく乗り越えて、東北地方の活性化対策が日本経済に刺激を与える原点になる。元気があれば何でもできる!元気力がつく全ての源。

玉川温泉開発にかける強い思いで代目関直右衛門は私財を投げ打ったのではないだろうか。


当時のお金で5万円を寄付して道路工事を申請する。県道角館線の延長工事が着工される。当時は軍馬1頭が30円から50円で買えた時代で、それが軍拡により10倍以上に値段が跳ね上がったという。清酒上選1.8ℓ1円で買えた。当時の東大卒の官史で65円。大卒者初任給は50円から7円であった。2010年の大卒の平均初任給を22万円として、当時の物価や価値観が違うので単純比較は難しいが、現在の貨幣価値換算で清酒特級1.8ℓが2000円の2000倍x5万円=1億円相当の寄付。月給では約3000倍の価値とするとx5万円=1.5億円相当を寄付したことになる。

1934(昭和9年)鹿湯の名前が近くにある酸ヶ湯などと紛らわしいという事で、朝日新聞社の当時の記者で一世紀以上も連載されている名コラム『天声人語』の命名者で文豪であった杉村楚人冠氏の提案によって東京にも馴染みがある多摩川と玉川が流れているので玉川温泉と命名される。


この年ドイツで極右政党ナチスのヒトラーが総統になる。1936年(昭和11年)日本では 軍事クーデター226事件。青年将校らが反乱をおこし首相官邸などを襲って大臣らを暗殺。軍による独裁政府の樹立を目指したが失敗。結果的には軍の独裁化を進める事になった。19379月 日中戦争勃発。12月南京を陥落。
1939年 満州南西部で日本軍とロシア軍が衝突。日本が壊滅的打撃を受けた。ドイツがポーランド侵攻。英仏両国がドイツに宣戦布告して2次世界大戦が始まる。1940年(昭和15年)日独伊 三国軍事同盟。
田沢湖(最大水深423.4=日本一。透明度4m。)
1940年代目関直右衛門(68歳)が宮川村(のちに合併で八幡平村になり現・鹿角市)の村長になった
1941年の宮川村役場新築工事に5000円(1500万円相当)を寄付している。この年、田沢湖の湖水を利用した国策事業の水力発電所(生保内=おぼない発電所=当時は秋田県最大の発電力と言われた)が完成。東北電力の管轄。待望の電気が通り周辺は恩恵を受けた。それでも玉川温泉までは通らなかった。(1991年=平成3年の玉川ダムが出来るまで、玉川温泉は電気なしのランプの湯治場であった。)


1941年ドイツがソ連に宣戦。太平洋戦争が始まる。
冬の田沢湖(不凍湖)
この発電の為、田沢湖から湖水の流出量が増えた。農業用水でも使用していたが湖水位が下がり、水不足の影響が出始めた。それを賄う為に玉川の水を導入した。玉川は玉川温泉の強酸性の水である為、農業用には向かない水であった。八幡平山脈からの恩恵で湧水が豊富で透明度を誇ったエメラルドブルーの美しい田沢湖の水質が激変した。

田沢湖は最大水深423.4=日本一。透明度4mである。田沢湖固有種のクニマスを含む魚類や生植物の多くが絶滅した。国策事業で進められた発電所に田沢湖の生態系の破壊に反対する学者や自然保護運動家などの口まで封じ込んでしまった。クニマス愛好家達によって全国の愛好家にクニマスの受精卵を送りつけ保護を訴えたのであったが田沢湖町観光協会は1995年から1998年まで100万円~500万円と懸賞金を段階的に懸けて全国にクニマス探しを行ったが発見されなかった。

玉川毒水!  この頃、玉川温泉下流の田園の稲のみのりが悪いのは、玉川温泉の強酸性水が原因ということが突き止められて、強酸性水=毒水であるとされた。人間にとっては益水で良い薬効成分であるが稲作農家にとっては農業用水に向かない毒水と言われた。魚の住める水にする為に1989年(平成元年)の酸性水中和処理施設(石灰粒で酸性水を中和する施設)が出来るまで玉川毒水は田沢湖に流入され続けられた。


1943(昭和18年9月27日)玉川温泉開発に心血を注いだ関直右衛門死去(1873年9月5日生れ=71歳)。

激動の時代を精力的に生き抜いた五代直右衛門氏の早すぎる死である。我々が玉川温泉を便利に利用できる用になった事や社会的な功績に対して最大級の敬意と感謝を表してご冥福をお祈りしたい。合掌!

1943年六代目関直右衛門玉川温泉株式会社、社団法人玉川温泉研究会を設立。


100万円で玉川温泉研究所を新築する。東京大学や東北大学の化学・医療の各分野の科学者が多数参加して玉川温泉の科学的・学術的な解明が本格的に開始された。
当時の大卒銀行員初任給が75円(約20万円)、国鉄初乗運賃10銭(JR130円)、はがき1枚2銭(50円)、映画館入場料80銭(1800円)でした。 ※(カッコ内)は現代の価格換算。
対象品目によってはかなりの誤差が生じますが、当時の1円は2200円~2600円程度。当時の100万円は現在の25億円である。10万円(2億5千万円)の間違いでは?? ※玉川温泉の公式ガイドブックに記載されているのだが?
1943年この年イタリアが降伏。ファシスト党解体。

1944年アメリカのB29爆撃機による日本本土爆撃が激化する。集団疎開が始まる。

1945年アメリカ軍の沖縄への上陸で、沖縄の日本軍全滅。
1945(昭和20年)ドイツが無条件降伏。8月アメリカが広島と長崎に原爆投下

日本無条件降伏(日本の敗戦)。2次世界大戦終結。
日本がポツダム宣言を受諾。連合軍が日本を占領する。財閥の解体。
1946年インドシナ戦争。1948年 朝鮮が韓国と北朝鮮に分裂。1948年インドのガンジーが暗殺される。1949年 中華人民共和国 成立。毛沢東が主席になる。


1949年焼山が小噴火!


1950年中国国民政府が台湾に移る。インドネシア共和国、成立。
1950年朝鮮戦争が起きる。この戦争を機に警察予備隊(自衛隊)が創設される。

1950(昭和25)角館側からの道路が開通。一時期大戦で中断されて、実に18年がかりの道路工事であった。


代目関直右衛門は道路工事に毎年5000(1500万円相当?)を寄付し続けたという。


道路の開通を見届けないまま完成の7年前に旅立たれた代目関直右衛門。執念の玉川温泉開発にかけた思いに、我々は心から最大級の敬意と感謝を表したい。合掌。


1951年サンフランシスコ平和条約を締結。吉田茂 日本の独立を回復。日米安保条約締結。米軍が日本にそのまま今日まで駐留し続ける。


1951年焼山が小噴火!


1952(昭和27)北投石が特別天然記念物に指定されて採取は全面禁止になる。それまでは万病に効く薬石と云う事で採取や盗掘が続いたという。規制前のモノとか、下流から採取したとモノとか、今でも高額で取引されているが役に立たない北投石の偽物(普通の石・玉川の川石・焼山石・ミカゲ石・湯の華塗装の石など)が大量に出回っているので注意が必要である。2004年には大量に持ち出したり、湯の華採集場から湯の華などを盗み出した盗掘者を摘発している。


1953年NHKテレビ放送開始。


1953年(昭和28年) 高松宮殿下が湯瀬ホテルから足を伸ばして、玉川温泉まで視察で来湯された。参考までにあげると、湯瀬ホテルには1936年秩父宮殿下、来泊。1961年 第16回秋田国体開催の際に昭和天皇・皇后両陛下、来泊。皇室御用達のホテルにもなっている。
1956年日本 国際連合に加盟。日ソ共同宣言。ソ連と国交回復。国際舞台へ復帰。


1956年(昭和31年)八幡平が国立公園に編入される。

五代目関直右衛門の悲願でもあった国立公園への編入である。何年もかけて霞ヶ関の関係省庁に陳情を繰り返し、政界の有力者や著名人を湯瀬温泉に招いたりと毎年のように講演会など開催したりして、十和田・八幡平の観光協会支部長として尽力をしたと言う。後に功労者として表彰されている。
観光資源として自然環境が乱開発から保護されるメリットはあるが、新たな人工構造物などは全て規制されるデメリットもある。
紅葉の十和田湖
春の十和田湖


八幡平 5月のアスピーテライン(11月~4月は雪で通行止め)



1959年 玉川温泉が厚生省の国民保養温泉地に指定される。

1953年エジプト共和国成立。朝鮮休戦協定。1963年アメリカ大統領ケネデイが暗殺される。1963年日本の原子力研究所で発電成功。
原爆を落とされた日本が核の平和利用で夢の発電エネルギーとして期待され、原子力発電所が次々と建造されていったが福島原発の事故が起こる事を誰が予測したであろうか!人類が制御できない原発を反対する一部の学者がいたが押し切られてしまった。いざという時に核爆弾を製造できるという国策の技術開発は世界トップレベルの物理学者を育成するのに多くの犠牲を払うのだ。技術大国日本の軍事と科学の裏事情があるのだ。


1964年東京オリンピック大会開催。1965年アメリカが北ベトナム爆撃開始。1965年名神高速道路開通。

日本経済は実質成長率10%強(いざなぎ景気の始まり)の高度経済成長の時代に突入した。アメリカも好景気が続いた。

中国で文化大革命が始まる。1967年第3次中東戦争。

1966年(昭和41年)国鉄田沢湖線が全線開通する。

1968年(昭和43年)玉川温泉~五十曲間が開通し、県道角館線が全線開通する。

1969年東名高速道路開通。

日本のGNPが世界第2位となり経済大国の道を歩み始める。
1969年アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功。




1970年(昭和45)八幡平アスピーテライン(有料道路)が開した。 駒ケ岳噴火。


駒ケ岳噴火





八幡平アスピーテライン航空写真



岩手山と八幡平アスピーテライン

1971年(昭和46年) 癌病に効く玉川温泉が話題になる!鹿角市で鹿角タイムス社を経営していた阿部眞平氏が出版した『世界の奇蹟 玉川温泉』で癌が治る。万病が治ると書いた本が話題になって、このころから玉川温泉の湯治希望者が増え始めたという。
         
阿部眞平氏は地元の湯治宿の支配人をやっていた経歴もある。本人が持病持ちで複数の難病を玉川温泉で治した経験もあった。阿部氏は、温泉の効用を科学的に研究したいという本人の強い探究心もあって、頻繁に社団法人 玉川温泉研究会(1943年六代目関直右衛門が設立)に出入りしていたという。阿部氏は地元でも名の知れた温泉研究家(生き字引の玉川博士)であった。


研究所に来る先生方と交流を深めて、40数名の学者達との意見交換や臨床データーのやり取り、周辺の温泉の手配などで研究の手助けをしたり、温泉情報を集めたりと多くの学者から医療・学術など広範囲にわたって指導・教示を得たという。

鹿角タイムスに連載していた温泉の効用を本にまとめて出したらどうかと元東大病院の大島良雄院長(日本の温泉医療の重鎮。温泉医療の研究でラジウムの効用を日米の学会で発表している)の勧めもあって本を出版することになったのである。鹿角タイムス紙の連載記事では本人のペンネームは玉川温泉医療相談者・藪井竹庵である。

1972年沖縄が返還される。

1971年中国の国連参加。国民政府を追放。1972年日本と中国の国民政府が断交。田中角栄首相訪中。


1973年(昭和48年)玉川ダムの建設に着手。1973年第4次中東戦争。1975年ベトナム戦争が終結。1978年日中平和友好条約調印。1979年ソ連アフガニスタンに侵攻。米中が国交を樹立。
玉川ダム湖(宝仙湖)

1975年山陽新幹線博多まで開通。

TV放映で玉川温泉人気が急上昇!

予約の取れにくい温泉になる。1986=昭和60年代の初め民放テレビ局が放映した玉川温泉湯治情報番組がきっかけで爆発的な人気になり、中々予約の取れない状況が続いた。
内容は現代医学から見放された癌患者の湯治闘病生活の物語である。健康番組で時々、TV放映はされたが、ガムシャラに我流で湯治を行い、予備知識も持たずに、正しい湯治の仕方やマナーのわからない迷惑な人々もいる。そういう人に限って、ヒリヒリ・チリチリの湿疹の痛みに耐え切れずに、自分には合わない温泉であると逃げ帰る人もいる。

平成元年(1989)に玉川中和処理施設

玉川温泉の強酸性泉水=通称は玉川毒水を野積みの石灰で中和して川に流すための施設が出来た。それまではイネ枯れで農業用水としても不向きな酸性水の状態であった。田沢湖に玉川毒水が流入させてしまいクニマスの絶滅や田沢糊の生埴物を壊滅状態に追い込んだ。現在ではpH6.8まで中和され田沢湖は魚の住める湖に再生されつつあるが、道のりは険しいという。

新たな問題も発生。中和剤に野積みの石灰を使用しているが沈殿のかき混ぜも行われているが石灰分が粒子状になって発生。湖水の白濁化現象が出て透明度がなくなりつつあるという。ダイバーが潜水すると湖底は白く濁って見えないという。発電は田沢湖の水ではなく、玉川の直接水流に切り替え工事が出来ないのであろうかこのままでは神秘的なエメラルドグリーンの色が消滅するかもしれない。
玉川中和処理施設
1990年ベルリンの壁崩壊=東西ドイツが統合。日本はバブル経済が崩壊。

青森・青荷温泉・ランプンの宿も風情があってよい!

1991年(平成3年)ランプ生活の湯治場であった玉川温泉に電気が引かた。1990年に玉川ダムが完成して発電されるようになった為であるがこれを境に冬季は休業していた玉川温泉であったが平成4年から冬季営業を開始。

自炊部門を除き暖房のある部屋の関係で200名を受け入れ。1988年(平成元年)の酸性水中和処理施設センターが出来たときに電気が一部引かれたそうである。ただこの時点ではホテル全館の電気配線工事などが未整備でもあり本格導入には至らなかったようである。


玉川ダムの建設で人工湖の宝仙湖ができた。発電と秋田市への上水道、工業用水道、洪水対策と玉川毒水を中和処理する水質改善を含む特定多目的ダムである。総貯水量は25000万tで東北では3番目の規模を誇る。季節ごとに変化するエメラルドグリーンの湖水色は神秘的で神々しい。新緑の季節5月の末~6月と10月~11月初旬の紅葉は圧巻である。

紅葉の宝仙湖(11月初旬)

1991年湾岸戦争。1991年ゴルバチョフがソ連邦解体。1997年香港が中国に返還される。

源泉100%誕生の秘話!

1992年(平成4年)から電気が通った事がきっかけであるという。熱交換システムの導入で源泉100%を38度台のヌル湯にすることが可能になり、源泉100%の浴槽を初めて登場させた。


玉川温泉のお湯と水の番人。源泉100%の生みの親と言われる阿部富夫氏(1936年生、鹿角出身・2011年現在=74歳現役)は温泉の温度管理のプロである。初めて27歳の時に玉川温泉に来た当時は道路も電気も通っていなかったという。

玉川温泉は平成3年まで通年営業はなかった。

1120日から41日までは冬季営業を休業していた。休業期間中は6人の越冬隊員として外界から隔離された豪雪地帯(積雪7mにもなる)の温泉で、毎日、屋根に3mも積もる雪との格闘であったという。温泉の熱を利用して融雪(道路などの雪を溶かす)・サウナ蒸し風呂・人口岩盤浴・湯華の乾燥などを創意工夫したという。

源泉は大噴で98度の熱湯の湯の川を第一湯留で82になる。湯樋で70にして湯華を採取するという風に湯樋を通過させ沢水などで段階的に冷やすとか湯樋の距離などを考えゆっくりと冷やす方法で、独自の熱交換システムを試行錯誤して完成させた。

機械式の全自動の熱交換システは導入したが、強酸性泉である。すぐに壊れると言う。源泉から湯を引く湯溜めと樋の距離などを計算して経験と感の積み重ねプロになったという。冬と夏場など10度前後の温度差が出るので工夫が必要であるという。このノウハウで他の施設の新玉川・そよ風などでも恩恵を受けている。毎日、温度が変化する。感覚的な職人技が必要である為に、定年で辞めた後も現場に再登場になったという。温泉はお湯の温度が命。快適な温度管理がなければ湯治も安心できない。

平成3年までは沢水を源泉に割って源泉50%の浴槽だけで営業していた。

強酸性の湯は刺激が強くてイタ痒いが50%の源泉よりも、源泉100%の方がもっと温泉の効用があるのではないだろうか!という、玉川温泉 附属診療所の野口順一先生(皮膚科・温泉療法医)の助言と指導で当時の阿部武営業所長達が適温の刺激の状態など人体実験を繰り返しながら38~39のヌル湯のアイデアで源泉100%を誕生させたという。

劇的に効果も出たようであるが、湯ただれのブツブツ湿疹かぶれも続出したのである。肌の弱いデリケートな子供やご婦人たちにはとても厳しいお湯でもある。以前よりも短期間で難病が回復改善される結果になったかもしれないが、デメリットとしては刺激が強すぎて、自分には合わないと100%源泉を逃げ出す湯治者も多い。


 私の場合は毎回、玉皮クンが悲鳴を上げる。玉川温泉=玉皮応戦なのだ!100%源泉入浴主義と言う猛者(もさ)以外は無理せず50%に長湯すれば良いのだ。野口先生も言う、ヒリヒリ・チリチリ・シミて痛痒い玉川温泉は皮膚を鍛えて湿疹ブツブツ肌にして病気を治したり、未知の病気を教えてもらう医者のような温泉であると。


源泉100%の湯は冬場はヌル過ぎと感じるが実は熱いと数分しか居れない。


体調や病状にもよるのであるが3日目位から痛くカユミとブツブツ肌が出る。まれに10日以上いても出ない人もいるが、じっと耐えるのみである。人が波風を立てて湯船を移動するだけで辛くなる。皮膚表面にニキビの様な湿疹状の水ぶくれ状態が出る事で皮膚がツボのように刺激され内臓に刺激が届く。皮膚を鍛える温泉である。

皮膚表面でイタかゆい戦いが展開されて免疫力を体の芯から絞り出す=肌の刺激療法である。湯ただれ現象の出現である。最初は驚きの連続でもある。温泉の看護師は無理しないで休み休み湯治して下さいという。玉川ではブツブツ肌は勲章の様なものである。やがてそれが徐々に消えていく。新しい皮膚が出てきて帰宅後の通常のお湯の入浴で2から3カ月で、やがてはスベスベの肌に生まれ変わる。

シミになって消えなくなるのではと心配するが不思議な事に消える。年齢差はあまり関係ない。10日以上の長期湯治滞在しなければ、その感覚は実感出来ないのである。人前に肌をさらす職業の接客業や営業職や女優や役者さんには厳しい選択になる。

病気を治すか、美肌を維持するか!きれいごとでは病気を治せない。!

 湯治終了後の2から3カ月はブツブツ湿疹肌が目立つので半そでTシャツやV字Tシャツが着れない。1か月で美肌にするには弱酸性かアルカリ性の温泉に10日間程、湯治入浴すれば解決するのである。玉川温泉から16Kmほど離れた志張(しばり)温泉元湯はお薦めである。この温泉は母体会社のリゾート会社の倒産で3年ほど閉鎖されていたが平成23年(2011年)の6月に、地元・鹿角市出身のオーナーさんによって再開された。世界でも珍しい植物性ゲルマニュウム温泉(弱アルカリ性単純泉 45.2度ぺハーpH8.3透明色)である。泉質詳細は含ゲルマニウム弱アルカリ性重曹泉で八幡平温泉郷ではこの温泉だけがゲルマニウムを含有しておりとても貴重な泉質である。
悪性のアトピー皮膚炎が10日で治ったと言われる程の驚異的な温泉で、皮膚炎には最高の温泉である。昔から玉川温泉の湯治の途中や湯治の仕上げに志張温泉元湯を利用するのがよいとされていた。志張温泉元湯http://shibarionsen.com/

玉川温泉で出る湿疹に、話を戻そう。一般的な悪性の湿疹とは訳が違う。湯治中は温泉の殺菌性が強いので、化膿することはない。直ぐかさぶたになるので問題はない。近場にある弱アルカリ性の温泉水をペットボトルに用意してローション代わりに塗りこんでも良い。天然温泉で治すのが1番。弱アルカリ性であれば人工掘削の温泉でもOKである。

私の場合は化学薬品は使わない。半年ごとの行事と思っている。私自身は、もともと敏感肌であせもやヤマイモ・醤油などですぐかぶれていたが、玉川温泉に来るようになってからはカブレは出なくなった。体質が改善されるのである。アトピーも治る。


乾布マッサージやタワシなどの皮膚刺激で皮下が刺激されて熱を帯びると言った内臓を鍛える健康法が昔からあり、皮膚表面刺激が免疫系ホルモンの活性化を誘発する事で風邪をひかなくなるなどに通じる肌が鍛えられると免疫系が活性化するという理論が成立する。 

1996年(平成8年)源泉と岩盤浴場にに一番近いホテル(約400m)玉川温泉ホテルの大浴場新築と増・改築工事が行われた。エレベーターはない。部屋は一部を除いて、基本的にトイレ洗面室は共同使用である。洋室もあるが和室が主流である。自炊館や18人もの大部屋があるのが驚きである。相部屋や大部屋は暗黙の先輩・後輩と言う体育会系の風習があると言う。今はなくなったが、昔は男女混浴で大部屋も男女雑魚寝の時代もあったという。設備の古さと料理のまずさは玉川で1番である。


1998年(平成10年)新玉川温泉ホテル開業。
玉川温泉から約1km離れた場所にある。冬季の雪で通行止め以外は徒歩で約15分。リゾート開発型のエレベーター付の近代的な施設。館内はバリアフリーで車椅子利用が可能になった。観光地化に対応したホテルで部屋はベット・TV・トイレ・電気ポット・暖房専用設備付の洋室が標準。家族向けの和室+洋室のミックスや和室もある。

2004年(平成16年)ぶなの森 湯治館 そよ風 開業。
トータルヘルスケアホテル。湯治保養温泉型ホテル。有料の介護サービスがある。車いすが利用出来るバリアフリーの施設。エレベーター付の最新設備が完備。身障者割引や介護者割引が適用されるホテル。部屋はシングル・ツインが中心。ベット・TV ・机セット・トイレ付の洋室が基本で家族向けの和室+洋室のミックスや和室もある。4人部屋と言う個室ブースに間仕切りされた、相部屋が用意されているのが長期滞在者にはとてもうれしい。


2014年(平成26年)7月1日付けで、湯瀬ホテル(鹿角市八幡平、関雅文社長経営)を玉川温泉と新玉川温泉を含み宿泊施設管理運営会社「せせらぎ宿(じゅく)」(東京、深田智之社長)に、事業譲渡することになった。湯瀬ホテルを玉川温泉株式会社に名称変更して、従業員28名を引き継ぎ、1億円を投入して施設の改修工事を進めるなど、新たな玉川温泉グ
ループを展開することになった。湯瀬ホテルは『くつろぎ宿』の姉妹館として営業中。

深田智之社長は高知県須崎市のグリーンピア土佐横浪を2年で黒字化し、会津東山温泉の『くつろぎ宿』を経営。同市で経営不振だった三旅館の同時再生を3年余りで成功させた実績がある。地域再生への新たな取り組みが期待できます。



湯瀬ホテルによると、1990年代後半は年間16~17億円の売り上げがあったそうであるが、東日本大震災後に客足が激減。2012年度は約1億円の純損失を計上、翌13年度は赤字額が3億円超に拡大した。国立公園内にある玉川温泉という癌などの難病治療の温泉湯治の聖地的な温泉ブランドの消滅の危機が救われることになった。

※しかしながら国立公園内という場所柄、温泉湯治の総合療養施設の実現を待ち望んでいる、多くの医療関係者や温泉学術研究者や難病を克服して完治した人達も現在恩恵を受けている人も国立の療養施設が出来ることを願っているのであるが、実現を難しくしているのは管理する省庁が環境庁・国土建設省・林野庁・厚生省など幾つもの権力闘争に阻まれているのが原因でもある。薬が売れなくなるが心配の難病治療の医薬品メーカーの圧力もある。最先端の放射線や最高レベルの医療システムを駆使しても難病や癌を治療できる確率が低いのはとても残念なことである。

自然のエネルギーを活用して難病を治すという、最も自然な発想が非科学的な扱いになるのかがおかしのである。アナログな人間の身体の構造的な心と肉体のバランスが崩れる為に起きる病気をナゼ難しい方法の不自然なデジタルな科学力を持って治そうとするのか?病気を真剣に治す事より、高額な医療費を取る為の医療機関になっている気がするのだ。